2013/08/04

徒然草第一段の考察-僕の小規模な嘆きその21

・小気味のいい音楽の話
小気味のいい音楽というものが何かよく分からないでいる。
とあるスカバンドのYouTubeのコメントに
「小気味のいい音楽」と評価されているのを見てから
「小気味のいい」を使いたくてしょうがないのだけど
グーグルで「小気味のいい音楽」と調べてもなかなかこれぞと思うものは
なかなか見つからず
このままでは永遠の謎になってしまいつつある。


・切手カタログの話
先日大きな本屋で最新の切手カタログを見つけた。
前年版の切手カタログを持っているので別にこれでも事足りるんだけど
最新の切手カタログが出るとなると一度は見たくなる。
最新のものだけあってとても見やすいもので大して必要ないものなのにちょっと欲しくなった。

その隣に置いてあった、切手の図柄の解説が詳しい記念切手カタログもまた
読み応えのある内容で面白みを感じられた。


・徒然草第一段の考察をする話
徒然草冒頭の第一段
「つれづれなるままに~」の考察をしたいと思う。

※徒然草第一段
「つれづれなるままに
ひぐらし硯に向かひて
心にうつりゆくよしなしごとを
そこはかとなく書きつくれば
怪しうこそものぐるほしけれ」

自分が注目したいのは最後の「ものぐるほしけれ」
の訳というか、解釈だ。

自分の解釈では、「兼好法師は思いつきを文章にしたためたことで『なんかオレ天才じゃね?』みたいな気持ち(優越感に似ているようなちょっと違うような)になっている状態」が「ものぐるほしけれ」になるんじゃないかと思うんだけど、
一般的な現代語訳を見ると
「ふしぎに物狂おしくなる」とか「現実味を帯びなくなって不思議な世界に引き込まれる」とか
ちょっと釈然としない。

だからこの「ものぐるほしけれ」についてちょっと考えようと思う。

単語自体の意味としては「ものぐるひ」の形容詞形であって
「狂気じみた」という意味になる。
狂気じみたと訳してもある程度は合っていると思うけれど、それでは兼好法師の文章を書き綴っている気持ちには届いているようで届いていない。
狂気じみたというならば、とりつかれたように書いている状態が適切であろうけれど、「そこはかとなく」書いている時点で、ダラダラと書いているところは明らかと思える。

ぼんやりと書いている時というのは変にぶっ飛んだ考えや気持ちが表れやすいものなので
「ものぐるほし」くなった時にどういう気持になっているのかというのが問題となる。

色々解釈があるので提示しておく。
一つは「書いていく内に自分がおかしくなってしまった」という文章を卑下するためという解釈。
一つは「書いていく内に自分の中の興奮が高まってきた」という興奮を表すという解釈。

解釈の流れで言うと、後者のほうが優勢らしい。
自分も後者の解釈にはうんと思えるので、後者に同意する。

では何に対して「ものぐるほし」くなったのか
書いている自分に対してなのか、書いた内容なのか、文章表現なのか
内容・文章表現に関しては文章をある程度書いた後でないと思ったことにならない。
前の文章からかかるものとして考えたら、書いている自分に対してというのが自然な気がする。

そして「ものぐるほし」くなると誰に対して書き記したのか。
これは兼好法師が自分自身を実況して書いたものだと思っている。
読者に共有させるという解釈もあるけれど、兼好法師のするどい観察眼が自分自身に向いて、
一瞬浮かび上がった、自分の高揚感をさらっと記したのが「ものぐるほしけれ」なんじゃないかと思う。

さて、「ものぐるほしけれ」と書くことで何を自分の中で表現したかったのだろうか。
ただの実況か、こういうことってあるよねっていうあるあるネタの提供か、高揚感で調子に乗っては行けないよっていう自分への戒めか。

いろいろある中の解釈で「想像力の原動力」というものを見つけた時、ちょっとハッとさせられた。
文章をダラダラ書いている中で生まれる高揚感に想像力の原動力があることを兼好法師は見つけた、そこに自分の書く理由を見出したのではないか

ただの高揚感をそれと捉えて終わるだけでなく、その先に自分の書く原動力を発見する兼好法師の一歩踏み込んだ観察眼にやはりただものではないと脱帽させられる。






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