・哲学と歴史は何の役に立つのか考えた話
自分は友達というのに縁が遠く、たとえ学生時代どんなに仲良くしていても
卒業した途端疎遠になってしまう。
そんな中なんとか縁をつないでいる友達がいる。
大学時代に知り合ったDという男だ。
彼は同じ学科で倫理学専攻だった。受験生の時はそれなりに成績がよかったものの大学生活のスタートに乗り遅れた、グループの中でぼっちになってしまう、考え事が好きなど
色々馬が合うところがあったからよく話していた。
夜に会って飯を食べてその後酒を飲みながら1時とか2時とか過ぎると決まって2人で哲学について話した。
自分も生き方について思うことは色々あったから彼に自分の意見を披露する時間は貴重かつ
有意義な時間だったと思う。
Dは今東京の大学院で形而上学という学問を勉強している。
前置きは長くなったがDが久しぶりにこちらにやってきた。
いつものように酒を飲みながら哲学を話していた時ふと自分が
「哲学をやっていて役にたったなぁと思ったことある?」と聞いた。
その時にDは曖昧に返した(らしい。その時のことはよく覚えていない)
後で彼がその時のことをブログに書いていて「ああ言えばよかった」という風に
哲学をやってよかったメリットを書いていた。
それを読みながらじゃあ自分が同じような質問をされたらどう返していただろうかと
考え込んだ。
今までなら「歴史を勉強してよかったことは物事を批判的に見る力、情報のソースにあたる力が身についたことです」と答えていた。
だがこれは本心ではない。「言い訳」に近い。
この答え方は「歴史なんて社会の役に立たないじゃん、なのになんでそんなもの学生時代やってきたのー?」っていう(いつの時代にもいる)実学至上主義者のイジワルな質問に
知恵を絞ってひねり出した、「歴史学を勉強することでいかに社会人として役に立つ能力を身につけるようになったか」という自己PRなのだ。
もちろんこんな自己PRを言えるために歴史を勉強したわけじゃない。だから上の言い方は
本心に逆らった「言い訳」になる。
じゃあ何が満足のいく「歴史をやっていて何の役にたったの?」という回答になるか。
自分はこう考えた。
「相手を満足させる答え方をひねり出すのは無理だ。自分にとって何の役にたったのかそれを考えよう」と。
歴史学のように人文系の学問に対する世間の風当たりは厳しい(「世の中の何の役に立つの?」という言葉が雨あられと降ってくる)。それに対抗できる答えというのは一般人が創りだすのは難しい。
言ったところで「ふーん」と言われてあしらわれるか、反論されるのがオチだ。
もうこうなったら開き直ることだ。
「確かに歴史学をやってもIPS細胞の研究は進まないし、新しいiPhoneも作れない。世の中に大きなインパクトを与える力は小さい。でも自分にとって○○という利点をもたらした」
もうこう言うことにしよう。
ここからが重要だが、自分にとって何をもたらしたかを考えなくてはいけない。
これが思いつかなかったら本当に学問をやった意味がない。
自分の場合
・一生関心をもって研究したいと思える対象が見つかった
・データを収集して整理することが苦にならない、向いていることがわかった
・好奇心を満たせる
・知識を蓄えることで自分には他の人にない知識を持っていると思えるようになり自信の原料になった。
・自分の住んでいる町を昔の視点で見ることもできるようになった
というところだろうか。
こうしてまとめると自分に正直になれた。
「何の役に立ったのか」なんて考えるより「何を自分にもたらしたか」と考えるのがずっと有意義で正直な答えを見いだせる。
場合によってはそこから本当に社会に役に立つ素材もでてくるだろう。
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